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遍在している [それから]

夜遅くまで、夫と思い出話をした。
茶々丸が若かった頃、どこで寝ていたかなど、
案外思い出せないことが多い。
当たり前すぎて思い出せない、という幸せ。
なくなってはじめて気付く。

そして朝起きて、静かであることに、おののく。

鳴き声、フローリングを歩く爪の音、
ごはんを食べる音、カーペットで爪とぎする音、
いたずらする音、トイレ砂をしゃかしゃかする音…

無音が、不在を知らせている。

旅行に行って帰ってきて、茶々は親戚のところに預けてて、
今日迎えに行くんだよね? だからいないんだよね?

今まで、高齢猫を亡くした話を聞いて、
気の毒だけどよくわからなくて、
そんな長生きしたなら若死によりはいいのでは、とか、
自分にもそんな日がいつか来ると思うと怖いとか、
単純なことしか思えなかったけど、
今ならいくらでも、いくらでも語れる。

後悔がないだけマシなんだろうな。
ああすればよかった、こうすればよかった、とかほとんど無いし、
治療法で悩んだこともない。
そういうので悩んで後悔がある人だともっとつらいんだろうな。

最後看取れたし、やりきった感すらある。

でもさみしいことはさみしいのよーー。

保坂和志の『生きる歓び』、瀕死の子猫を助ける話。
「助からなくても仕方がない」と思うことと、
「できることはなんでもする」は矛盾してなくて、個別に存在する、
ってのがすごくよくわかると思った。

後悔はないし、やりきった感はあるし、すごく幸せだった。
ということと、会えないのがつらいということは、
矛盾してなくて、それぞれが強固に存在している。

茶々はどこに行っちゃったんだろう? 
埋めたからお庭にいるの? 
でも、そのへんのソファとか、本棚の上とか、
いつもいたところに今もいるような気がするし。
いつも心の中にいるし。

夫が『群青』という震災後に作られた歌を聞いている。
こういうとき、また会おうってみんな言うけど、なんでだろう。会えないのに。
と言うと、 会いたいからだよ、と夫が言う。

虹の橋のふもとで飼い主を待ってるっていうのは、
飼い主心をそそる素晴らしい説だ。つくづくそう思う。

こっちから探した方がいい、
よく、庭に出ちゃったかもって焦って探して、
変なところにいたってあったじゃん。
あと、しばらく会わないと飼い主忘れてることあったしねー。
などと思い出話をして、また泣く。

翌日は、じつは観劇の予定があった。二人分のチケット。
ネットで売れなくて、無駄になるけど仕方ないなと思っていたけど、
行けることになっちゃった。
ここのところはまっている劇団イキウメの『獣の柱』。
SFで、不思議なことが起きる。気象現象か、宇宙人か、それとも…。

茶々も、生と死の間を、
きっぱり変わったのではなく、
なだらかに変化したのかも。
または行ったり来たりしたのかも。
または両方なのかも。
くはーって言ってるのに、死んでるかわからないとか、
生と死は明確には分かれていないのではないか。

とすると、ひょっとして、遍在している? 
家にも、我々の心にも、虹の橋にも、天国にも、庭にも、
いろんなところに存在している? 
「神はあまねく存在している」と同じように!


もう会えない、けど、いつも、ずっと、そばにいる。
これも、矛盾しているようでいて、矛盾していないんだ。
「千の風になって」はそういう意味だったんだ。


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