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完全な球体、もしくは座敷わらし [それから]

3日間ぐらいはずっとメソメソしていたが、
10日目ぐらいから、いないことに慣れてきた。

でもさみしいから、土日は出かけまくっている。

 仕事から帰るとき、
「今日も茶々をもふもふしよーっ」と思って、
「あ、いないんだった」と思う。

近所で遊べる猫と遊ぶと楽しいけど、前のようには楽しめない。

猫を飼う前は、「猫はかわいい」と単純に思っていたけど、
飼ってみると、濃密な関係を作れて、ますますかわいいと思った。
猫全体のかわいさが、飼っている猫を通じてつながって、完璧な球体になっていた。
でも、飼っている猫がいなくなってしまうと、
自分の猫がいないということがまず悲しい。
純粋には楽しめない。
昔はものを思わざりけり、だ。
猫全体については昔のように、遠くに、漠然としたかわいいがあるのだが、
それは自分とはいまいちつながっていない。
つないでいた自分の猫がいないから、すごく遠くに感じてしまう。
完全な球体は壊れてしまっていて、
目の前の猫がばらばらに存在している。

萩尾望都の『十年目の毬絵』のラストシーンを思いだす。
毬絵さんのことを好きだったが友達に取られてしまった主人公が、
毬絵さんの死で、友達に再会する話。
ラストシーンで、3人で過ごした10年前の学生時代を思い出す、
その絵が、円の中に3人がいるというもの。

茶々丸がいたときは、
猫そのものに対しても、
自分の生活も、
こんなふうだったなあ、と思う。
奥行があって、広がりがあって、でも完璧で。

茶々丸がいない今は、
平面だ。二次元だ。
いや、一次元、点かもしれない。

でも、最初からいなかったのと、
一度はいたけど今いないとでは全然違うよね。

仕事でミスして落ち込んだとき、
猫助けて飼って健康に気を使って最後まで面倒みて、
そんな一大事業を成し遂げた自分すごい、と急に自信を持ったりして。
茶々は本当に、いつまでも、私を幸せにしてくれるなあ。

イキウメの過去公演のDVD『見えざるモノの生き残り』を見る。
座敷わらしの話。
座敷わらしは、突然やってきて、その家を幸せにするんだけど、
願いはかなえてくれないの。
ん? 幸せって、なんなんだろう? という話。
座敷わらしは、満足したら帰るんだって。
それは「満期」って言ってた。

そうか、茶々丸は座敷わらしだったんだ。

座敷わらしは、かたしろを置いていく。

「茶々ただいまー」とドアをあけたら、
夫が聞いてるラジオから、「にゃー」と声が聞こえた。
本当に聞こえた。
でも夫には聞こえなかったそうだ。

見えないだけで、ちゃんといるよ、って言ってるんだね。

IMG_3387.JPG


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ふたたび、本 [それから]

●『風と木の詩』

ジルベールが死んだあとのセルジュの取り乱しっぷりを読んで、
わかるーと思う。笑。

●谷口ジロー『犬を飼う』

タイトルは「飼う」だが、中身は看取る話。
犬は猫よりも具合が悪くなってからが長いという。
我々は一か月ぐらいだったけど、こんなに長く面倒を見るのは、
精神的にもつらいと思う。
涙無しには読めない。

●内田百閒『ノラや』

ずっと怖くて読めなかったが、今なら読めると思って手に取った。

ノラは最初子猫で、しかも外猫で、
それが次第に大人になって、さかりがついて、帰ってこなくなった。
それは、仕方がないような…気も…
当時だったら、よくあることのようにも思う。

でもつらい。つらいということもよくわかる。
どこかで飼われているならまだいいけど、
病気になって帰れないとか、車にひかれたとか、
考えただけで耐えられない。
だから今は外に出さないんだよねえ。

百閒の嘆きっぷりがすごくて、
つらさに共感して泣きつつも、
滑稽で笑ってしまったりもする。
子猫から成猫になるまでのノラのいきいきとした描写も素晴らしい。

むしろ私に響いたのは、
ノラがいなくなって半月後ぐらいから登場したクルツだ。
この猫はしっかり看取ることができた。

伏せるだいぶ前から、すごく甘えるようになった、
よれよれになりながらも外に行こうとするのでとめた、
その日から11日後に亡くなった、
ごはんが食べられなくなり、
牛乳もあげても吐くようになり、
なのに洗面所にのぼったり、
最後の瞬間は「くしゃみをしてる」と思ったらしい。
あああ、わかるわかる。
茶々丸と似てるーーー。

クルツの弟かもって言ってたけど、
全然違くて、かなり年だったのでは?
と思ったら、最後のほうに、
じつはけっこう年だったことがわかった、と書いてあった。
でしょでしょ。

庭に埋まっているけど、でも家の中にもいると思う、
というくだりも、私が思ったことと同じだ。
わかるー、わかるよーー!
内田百閒と同じ結論に達してたよ、私(笑

●石津ちひろ/文 宇野亞喜良/絵『あのねこは』

猫をうしなった後に思い出している。
かなしみを、大事に大事に磨いてとじこめてある。
絵がとってもとっても素敵。
猫の動作とか表情とか、人間との距離感とか、わかるー。

●保坂和志『もう一つの季節』

茶々丸の名前のネタ元。18年ぶりに読み返した。

冒頭から、
主人公が幼かった頃に、当時飼っていた猫と一緒に写っている写真が登場する。
それを何十年も経ってから主人公の息子(くいちゃん)が見て、
写っている子どもが自分の父親であることに驚き、
さらには、写っている猫が死んでしまったということを理解できない、
という場面から始まっていた。

ああ、そうだった。
保坂和志のいいのはこういうところなのだ。

佐々木敦という人の書評にこうある。
「保坂の「猫小説」は、猫という生きものの生態や魅力が事細かに描かれているのでもあるけれど、それ以上に、猫という特別な存在を通して「死」と「生」、そして「世界」と「存在」のことを考える、考え続けるものになっている。」
https://www.tokyo-np.co.jp/article/culture/jihyou/CK2018040402000250.html
「大切な者を喪った時、その哀しみがあまりにもつらくて、その耐え難い哀しみを何とかしなくてはならない。或る時期以降の保坂和志の小説は、この要請から出発し、今もってその周囲を旋回している。彼の時間論、彼の小説論、彼の哲学は、煎じ詰めれば、すべてがこの要請への応接として構築されている。」
http://gunzo.kodansha.co.jp/18930/26986.html
なんだこの書評、むちゃくちゃかっこいいぞ。

猫を飼うときに、こんな小説から名前を取った自分。

そして18年後に猫が死んで、「死」について知った。
「世界」や「存在」について考えている。

18年前は予想してなかったけど、
まるで、最初からそうなることが決まっていたかのように、
18年間しまっておいた玉手箱をあけたら、
急に煙がでてきたみたいに、
今、猛烈に、保坂作品の中に自分がいる。

●小沢さかえ/絵 保坂和志/作『チャーちゃん』

保坂和志が絵本を出していたとは。
これまた絵がとってもかわいい。油絵なんだって。
チャーちゃんは、保坂和志にとって重要な猫。

「ぼく、チャーちゃん。はっきり言って、いま死んでます」で始まる。
つまり「あの世」が描かれている。

イキイキしてて、楽しそうなチャーちゃん。
こんなに楽しそうなところなら、茶々も幸せだろうな。

と思いつつ、一方で、
いろいろなものが混ざり合い、踊り、歌い、飛んでいるこの天国は、
現世での、あの手触りや、人間と猫としてかかわっていた関係性とは、
すごく違うんだろうな、と思って、
ものすごくさみしくもなる。



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話を聞いてもらう [それから]

一週間後、動物病院に、お菓子と手紙を持って報告に行った。
動物病院ではよくあることだろうと思っていたけど、
いつも往診に来てくれてた先生が涙目で受け取ってくれて、
すごくうれしかった。

18年分の写真からいいものを選んで、グーグルフォトのアルバムにした。
猫を飼ったことのある人に、話を聞いてもらいながらそれを見せると、
みんな涙目になる。

「今でも思い出して泣く」
「何匹看取ってもそれぞれの猫ことを思い出して泣く」
と言う。
そうかあ、そうなのかあ。

旅行のときに預かってもらっていた親戚の家にも、報告に行った。
そこのおうちで直近亡くなった子も、
いつものところで水が飲めなくなったって。
ご飯をほかの子が食べるから自分も食べようとするけど、食べられないとか。
頬がガリガリになったとか。
わかるー。

火葬したそうで、骨壺をあけて骨を見せてくれた。
頭蓋骨の出っぱりがわかった。
飼い主以外にはなつかない猫だったので、
なんと、骨になってはじめて触れた(笑)。
合計7匹飼ってきたけど、どの猫も、その瞬間は見てないそうだ。


参加しているウェブマガジン(http://dosuru40.com/)の仲間の家では、
偶然にも、同じ頃に旅立つ猫が多かった。(ちなみに私のHNは「プリ子」です)

https://tampopotai.exblog.jp/29478616/
同じキジトラだけど女の子。お風呂場に行くのが同じ!

http://dosuru40.com/nankasugoi/65009/
ぺらぺら!


たまに行く古着屋さんでも、話をした。
ちょうど最近、海外に買い付けに行ってる間に猫が危篤になって、
帰ってきたらもう意識がなかったそうだ。
でも、呼びかけたら耳だけ動かしたそうだ。
疲れて寝てしまった間にいってしまったそうだ。


お別れもそれぞれなんだな。

茶々丸も、一番最後は、ずっと、すーっすーっと息だけしていたから、
一人が見ていたとしても、
小さい発作が起きたときにもう一人を呼んで、急いで駆けつけても、
間に合わなかった可能性はある
(たとえばトイレ行ってるとか、ベッドで寝てるとか)。
くはーって息は聞けたかもしれないけど。

だから、最後の瞬間を見れるっていうのは、本当に偶然のようなものだ。
逆に言うと、どんなお別れでも、神様が決めることだし、
その猫が飼い主との関係性の中で、これがベストだと選んだことなんだと思う。


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遍在している [それから]

夜遅くまで、夫と思い出話をした。
茶々丸が若かった頃、どこで寝ていたかなど、
案外思い出せないことが多い。
当たり前すぎて思い出せない、という幸せ。
なくなってはじめて気付く。

そして朝起きて、静かであることに、おののく。

鳴き声、フローリングを歩く爪の音、
ごはんを食べる音、カーペットで爪とぎする音、
いたずらする音、トイレ砂をしゃかしゃかする音…

無音が、不在を知らせている。

旅行に行って帰ってきて、茶々は親戚のところに預けてて、
今日迎えに行くんだよね? だからいないんだよね?

今まで、高齢猫を亡くした話を聞いて、
気の毒だけどよくわからなくて、
そんな長生きしたなら若死によりはいいのでは、とか、
自分にもそんな日がいつか来ると思うと怖いとか、
単純なことしか思えなかったけど、
今ならいくらでも、いくらでも語れる。

後悔がないだけマシなんだろうな。
ああすればよかった、こうすればよかった、とかほとんど無いし、
治療法で悩んだこともない。
そういうので悩んで後悔がある人だともっとつらいんだろうな。

最後看取れたし、やりきった感すらある。

でもさみしいことはさみしいのよーー。

保坂和志の『生きる歓び』、瀕死の子猫を助ける話。
「助からなくても仕方がない」と思うことと、
「できることはなんでもする」は矛盾してなくて、個別に存在する、
ってのがすごくよくわかると思った。

後悔はないし、やりきった感はあるし、すごく幸せだった。
ということと、会えないのがつらいということは、
矛盾してなくて、それぞれが強固に存在している。

茶々はどこに行っちゃったんだろう? 
埋めたからお庭にいるの? 
でも、そのへんのソファとか、本棚の上とか、
いつもいたところに今もいるような気がするし。
いつも心の中にいるし。

夫が『群青』という震災後に作られた歌を聞いている。
こういうとき、また会おうってみんな言うけど、なんでだろう。会えないのに。
と言うと、 会いたいからだよ、と夫が言う。

虹の橋のふもとで飼い主を待ってるっていうのは、
飼い主心をそそる素晴らしい説だ。つくづくそう思う。

こっちから探した方がいい、
よく、庭に出ちゃったかもって焦って探して、
変なところにいたってあったじゃん。
あと、しばらく会わないと飼い主忘れてることあったしねー。
などと思い出話をして、また泣く。

翌日は、じつは観劇の予定があった。二人分のチケット。
ネットで売れなくて、無駄になるけど仕方ないなと思っていたけど、
行けることになっちゃった。
ここのところはまっている劇団イキウメの『獣の柱』。
SFで、不思議なことが起きる。気象現象か、宇宙人か、それとも…。

茶々も、生と死の間を、
きっぱり変わったのではなく、
なだらかに変化したのかも。
または行ったり来たりしたのかも。
または両方なのかも。
くはーって言ってるのに、死んでるかわからないとか、
生と死は明確には分かれていないのではないか。

とすると、ひょっとして、遍在している? 
家にも、我々の心にも、虹の橋にも、天国にも、庭にも、
いろんなところに存在している? 
「神はあまねく存在している」と同じように!


もう会えない、けど、いつも、ずっと、そばにいる。
これも、矛盾しているようでいて、矛盾していないんだ。
「千の風になって」はそういう意味だったんだ。


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